加藤唐九郎の行方不明作品や人間国宝(無形文化財)剥奪理由について!

こんにちは!
今回は、加藤唐九郎さんについてのお話です。
今晩の「開運!なんでも鑑定団」で、加藤唐九郎さん作の、行方不明になっていた幻の名器かもしれない作品が出品されるんです!
本物なのでしょうか??
楽しみですね〜!

今回は、加藤唐九郎さんについてのお話です。

加藤唐九郎さんは、明治30年生まれの陶芸家です。

昭和27年に、無形文化財有資格者に認定されたのですが、

とある事件をきっかけに、剥奪されちゃいます。

 

無形文化財有資格者とは、人間国宝のことです。

 人間国宝(にんげんこくほう)は、日本の文化財保護法第71条第2項に基づき同国の文部科学大臣が指定した重要無形文化財の保持者として各個認定された人物を指す通称である。文化財保護法には「人間国宝」という文言はないが、重要無形文化財の各個認定の保持者を指して人間国宝と呼ぶ通称が広く用いられている。
引用:人間国宝 – Wikipedia

人間国宝の方が、広く認識されてますよね。

それに、「国宝」という言葉が凄さを増やしている感じがしませんか?

 

10月3日にテレビ東京が放送する

「開運!なんでも鑑定団【最強お宝集結!行方不明だった怪物の名碗発見!】」

で、加藤唐九郎さんの、長年行方不明になっていたかもしれない作品が

出品されるんです!

もし、本物だとすると、どれくらいの金額になるんでしょうか??

楽しみですよね〜

 

ということで、今回は加藤唐九郎さんについてですよ〜

長年行方不明になっていた、加藤唐九郎さんの名器って?

沙羅ちゃん、「開運!なんでも鑑定団」好きだったわよね?
そうなんです彩香さん!
骨董品とか、昔のものってワクワクしませんか??
沙羅、お寺とか神社も好きなんですよ〜。

沙羅

沙羅ちゃん、意外と渋い趣味なのね(笑)
今晩の「開運!なんでも鑑定団」で行方不明だった名碗かも?って作品が出るわよ。
ほんとうですか!
本物だったら金額どるなるんだろ〜??

沙羅

今晩、2017年10月3日にテレビ東京で、

開運!なんでも鑑定団【最強お宝集結!行方不明だった怪物の名碗発見!】

が放送されるんです!

 

今回の鑑定団で、沙羅が注目してるのが、

加藤唐九郎さんの作品で、

長年、行方不明になっていた幻の名碗なんだそうです!

もし、本物だったらどんな金額になるのか楽しみなんです!

 

なので、長年行方不明だった幻の名碗について、

まずは調べてみました〜

なんでも鑑定団の今回の内容紹介には、

【怪物・加藤唐九郎が遺した幻の名碗】
貯金ゼロ。稼ぎのすべてを骨董に注ぐ歯科医自慢のお宝は、実物を見ずに500万円で買った茶碗。それは「陶芸界の怪物」といわれた加藤唐九郎の作品で、自分なりに調べた所、唐九郎が最晩年に制作し、長年行方不明になっていた幻の名碗と確信したが…。
驚きの鑑定結果にスタジオ騒然!

引用:開運!なんでも鑑定団【最強お宝集結!行方不明だった怪物の名碗発見!】 | テレビ東京

と紹介されています。

「唐九郎が最晩年に制作し」って書かれているので、最後の作品なのかなぁ。

加藤唐九郎さんのWikipediaには代表的な作品が紹介されています。

代表的作品

  • 志野茶碗「氷柱」(昭和5年)
  • 鼠志野茶碗「鬼ケ島」(昭和44年)
  • 志野茶碗「紫匂」(昭和54年)
  • 黄瀬戸「輪花鉢」(昭和58年)
  • 陶壁「鳳凰」富士宮市大石寺大宮殿(昭和38年)日本画家「加山又造」との共同制作
  • 陶壁「野竜共に吠く」愛知県労働者研究センター(昭和50年)
  • 陶壁「うず潮」西新橋 安芸路酔心 東京本店 外壁(昭和47年)
 

引用:加藤唐九郎 – Wikipedia

加藤唐九郎さんが亡くなられたのが、昭和60年です。

とすると、この中で一番新しい作品は、昭和58年の黄瀬戸「輪花鉢」です。

 

黄瀬戸とは、室町時代末期から桃山時代の陶器です。

黄瀬戸
きぜと

室町時代末期~桃山時代に美濃 (岐阜県土岐市とその周辺) を中心として焼かれた古陶で,美濃焼の一種。鉄釉によるあたたかい黄色でおおわれているのが特徴。なかに銅釉の緑で文様が施されたものもある。一般に,ぐいのみ手,菊皿手,あやめ手 (油揚手) の3種に分けられ,器形には皿,鉢,碗,花器,香炉などがある。

引用:黄瀬戸(きぜと)とは – コトバンク

美濃焼の一種なのですね。

コトバンクによると、

  • ぐいのみ手
  • 菊皿手
  • あやめ手
の3種類があるとのことです。

ぐいのみ手は、おちょこみたいな形をしています。

菊皿手は、お皿そのものといった形。

あやめ手は、つぼ形や、大きな茶飲みで蓋がついた物などがあります。

大きな茶碗の形をしたのも、あやめ手に入るみたいです。

 

それと、器の形でには、

  • 花器
  • 香炉
があるみたいです。

加藤唐九郎さんが昭和58年に作られた黄瀬戸は輪花鉢です。

探して見たところ、みつかりました。

 

その作品がこちらです。


黄瀬戸鉢

1982年5月の作である。この年5月17日から東京で「唐九郎の世界」展が日本経済新聞社の主催で催されたが、その時にこの鉢と同様の作振りのものが初めて出品された。
作者に聞いたところでは10点ほど同様のものを窯詰めしたとのことであるから、この鉢もその一つであろう。
私はこの手の黄瀬戸の鉢は唐九郎生涯の代表作として高く評価している。
桃山の黄瀬戸の再現に永年取組んできた作者が、桃山の心を内に体しつつ自由なこころで黄瀬戸輪花鉢に挑んだもので、ここでは桃山の黄瀬戸に対する拘泥は念頭になく、独自の風を求めて力強く奔放に輪花の大鉢をイメージして成功している。(林屋晴三)
(駒形十吉(編)『加藤唐九郎』長岡:駒形十吉記念美術館、1994年)

【制作年】
1982(昭和57)年
【寸法(cm)】
高10.3 口径31.0cm

引用:黄瀬戸鉢 | 一般財団法人 駒形十吉記念美術館

Wikipediaによると、昭和58年に作られた黄瀬戸は輪花鉢です。

そしてこの作品は、

「桃山の黄瀬戸の再現に永年取組んできた作者が、桃山の心を内に体しつつ自由なこころで黄瀬戸輪花鉢に挑んだもの」

と説明されています。

 

なので、この作品は見た感じお皿に見えるんですけど、

黄瀬戸輪花鉢なのだと思います。

 

そして、説明によると、加藤唐九郎さんはこの作品と同じものを10個作られたようです。

そのうちの1つが、1982年5月の唐九郎の世界展で展示されたこちらの作品です。

のこり9個のうち、どれかが行方不明になってしまったのでしょうか?

 

この作品、作られたのは、説明では昭和57年とあります。

でも、Wikipediaでは同じタイプの作品が昭和58年に作られた事になってましたよね!

仕上げで年を越しちゃったのかなぁ?

それとも、そのあとに作った作品が行方不明になっちゃったのか。

謎は残りますよね。

 

この作品について、より詳しい情報はこちらにありますよ。

黄瀬戸鉢 | 一般財団法人 駒形十吉記念美術館-駒形十吉記念美術館

 

実は、もう一つ行方不明になっている加藤唐九郎の作品があります。

それが、永仁の壺です。

この永仁の壺について、Wikipediaでは次の様に説明されているんです。

 1959年、「永仁二年」(1294年)の銘をもつ瓶子(へいし)が、鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして国の重要文化財に指定された[1]。しかしその直後からその瓶子は贋作ではないかという疑惑がもたれていた。この瓶子は結局、2年後に重要文化財の指定を解除されることとなり[2]、重文指定を推薦していた文部技官が引責辞任をするなど、美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなった。件の瓶子は実は陶芸家の加藤唐九郎の現代の作であったということで決着したが、事件の真相についてはなお謎の部分が残されているといわれる。

永仁の壺事件 – Wikipedia

つまり、永仁の壺は1294年に作られた物だということで、

国の重要文化財に指定されたんですね。

 

でも、実は加藤唐九郎さんが作った作品だったという事で、

重要文化財の指定が取り消されちゃいました。

 

この永仁の壺、実は2つ有ったんです。

永仁の壺は、1294年に作られた事と、

対で作られていたけど、1つが行方不明になっていた事で、

海外流出を防ぐために、重要文化財に指定されたんです。

 1959年6月27日、「永仁の壺」は鎌倉時代の古瀬戸で、年代の明らかな基準作品として国の重要文化財に指定された。指定に際しては国際的な陶磁研究の第一人者で、文部技官・文化財専門審議会委員であった小山富士夫の強力な推薦があった。実は、「永仁」銘の瓶子は対で存在していたが、そのうちの1つが当時行方不明になっていた。そのため、小山は残る「永仁の壺」の海外流出を懸念し、重要文化財指定を急いだ経緯もあるという。また、「永仁の壺」を真作とした根拠の1つに、「永仁の壺」と同様の陶片が、この作品が作られたとされる瀬戸の「松留窯」から出土していたことにあった。しかし、実際は「松留窯」の存在自体が加藤唐九郎の捏造であったことが後に判明した。

永仁の壺事件 – Wikipedia

でも、実は加藤唐九郎さんの捏造だったという事で事件になったんです。

そして、行方不明になった1つはまだ見つかっていません。

これが、今回のなんでも探偵団に出品される行方不明の名器なのかもしれません。

でも、これも実は疑いがあって、Wikipediaでは、

「永仁二年」銘の瓶子(以下、「永仁の壺」という)が作られたのは1937年とされている。作者は陶芸家の加藤唐九郎とされるが、長男加藤嶺男、次男加藤重高、弟加藤武一などとする異説もあり、その製作の目的についても、習作、神社奉納用等、諸説ある。

永仁の壺事件 – Wikipedia

この様に説明されています。

つまり、1937年に作られたという事なのです。

1937年は、昭和12年です。

 

なんでも鑑定団の今回の内容紹介では、

唐九郎が最晩年に制作し、長年行方不明になっていた幻の名碗と確信したが…。

引用:開運!なんでも鑑定団【最強お宝集結!行方不明だった怪物の名碗発見!】 | テレビ東京

と紹介されています。

 

加藤唐九郎さんが亡くなられたのは、1985年です。

昭和60年なのです

 

なので、行方不明になっている名碗は永仁の壺ではないと思うんです。

そもそも、永仁の壺も、輪花鉢も碗ではないですよね。

本当に行方不明になった名碗があるのでしょうか??

加藤唐九郎さんってどんな人?

今回の鑑定団で出品される名碗って有名な人の作品なんですかね?
そうね、加藤唐九郎さんという、近代陶芸家の方よ。
人間国宝になってたみたいだけど、取り消されている人ね。

彩香

加藤唐九郎さんは近代陶芸家なんです。

人間国宝に指定されていたのですが、取り消されちゃってます。

何故かというと、先ほどの永仁の壺です。

この永仁の壺が捏造だったことが発覚し、人間国宝を取り消されちゃいました。

 

人間国宝というのは、正式な名称ではないんです。

正しくは、「無形文化財有資格者」といいます。

一般的には人間国宝という名称で呼ばれているんです。

 

加藤唐九郎さんが人間国宝を取り消された経緯もWikipediaにあります。

「永仁の壺」に対しては重要文化財指定直後から、鎌倉時代ではなく現代の作品ではないのかという声があがり、1960年2月に読売新聞でこの問題が取り上げられてから騒ぎがひときわ大きくなった。同年8月、週刊誌において加藤唐九郎の長男・加藤嶺男が「あの壺は自分が作ったものだ」と述べた。唐九郎はこの頃ヨーロッパに渡航していたが、同年9月23日、今度は唐九郎本人が「永仁の壺」は1937年(昭和12年)頃に製作した自分の作品であると表明した(報道は9月25日以降)。
文化財保護委員会では「永仁の壺」のエックス線蛍光分析を行った結果、釉薬に含まれる元素の比率が鎌倉時代のものとは異なると結論した。また、位相差顕微鏡による調査では「永仁の壺」の表面には、数百年前の作品なら見られるはずの経年変化が認められなかった。こうして、「永仁の壺」を含む3件の重要文化財陶器は1961年4月10日付けで指定を解除され、文部技官・文化財専門審議会委員小山富士夫は、責任を取って辞任した。また、加藤唐九郎は織部焼で人間国宝(国の重要無形文化財保持者)に認定されていたが、その認定も同年解除される。

永仁の壺事件 – Wikipedia

つまり、「永仁の壺」は実は現代の作品ではないかという疑惑が出てきたんです。

それを読売新聞が問題として取り上げてから疑惑の声が大きくなったのです。

 

そんな中、加藤唐九郎さんのご長男、加藤嶺男が、

「永仁の壺を作ったは自分だ」と、週刊誌に発表したんです。

そして、加藤唐九郎さんが「永仁の壺を作ったは自分だ」と告白されたのです。

 

このため、文化財保護委員会が永仁の壺を調査したところ、

鎌倉時代に使われているものとは違う釉薬が使われていたことと、

永仁の壺に年代相応の経年劣化が見られないということで、現代の作品という結論に至りました。

 

ちなみに、釉薬というのは、陶磁器を焼く時に表面に塗る薬です。

粘土でつくった器をそのまま焼いたものは「素焼き」と呼ばれ、表面が粗く、材質の異なる粘土を選ぶ以外には色を選ぶことが出来ない上、水を吸収しやすく用途が限定される。素焼きした陶器の表面に釉薬を釉掛け(くすりがけ、釉薬を付けること)して焼くと、表面をガラス質が覆い、小孔をふさぐために耐水性が増す。

釉薬 – Wikipedia

釉薬を塗ることで、陶磁器自体の耐水性が上がるんだそうです。

この釉薬の成分が、鎌倉時代とは違ったということなのですね。

 

こうして、加藤唐九郎さんは人間国宝ではなくなりました。

その後、加藤唐九郎さんは永仁の壺について語ることはありませんでした。

 

でも、永仁の壺の事件で、結果的に加藤唐九郎さんの知名度が高くなったんです。

なお、山田風太郎は「この事件ののち、重要文化財級の作品を作れる男として加藤の名声はかえって高くなった」と書いている。

永仁の壺事件 – Wikipedia

結果的に、加藤唐九郎さんの技術力の高さを、証明する結果となったのが永仁の壺事件でした。

 

そんな加藤唐九郎さんですが、ご両親は、農業をしながら、陶芸をされているご夫婦です。

なので、は小さい頃から、陶芸に触れていたんです。

そして、17歳になった加藤唐九郎さんは、お父さんの工房の一部で陶芸に没頭していきます。

 

加藤唐九郎さんが55歳の時、織部焼の技術が評価されて、

国の無形文化財有資格者に認定されました。

人間国宝のことですね!

 

63歳の時、永仁の壺事件で人間国宝が取り消された後、

漢詩人の服部擔風さんより、「一無斎」という号を贈られて、

それからは「一無斎」を名乗られています。

 

そして、晩年までは、陶芸の製作と、ご自身の作品をまとめた著書の執筆をされてます。

 

まとめ

今回は、現代陶芸家の加藤唐九郎さんについてのお話でした。
加藤唐九郎さんが作られた永仁の壺の事件など、
当時は色々と話題になったそうです。
今回のなんでも鑑定団では、加藤唐九郎さんが晩年に作られた名碗が出てくるそうです。
どんな作品が出てくるのか楽しみですよね!

今回は、加藤唐九郎さんのお話でした。

加藤唐九郎さんは、小さい頃から陶芸の世界に触れていたこともあって、

人生をかけて陶芸に没頭していきます。

 

歴史的な発見とされた永仁の壺が、実は加藤唐九郎さんが作られたもだったことが発覚し、

結果的に加藤唐九郎さんの技術の高さが評価される事になりました。

 

残念ながら人間国宝の資格は取り消されてしまいましたけど、

加藤唐九郎さんの作られた作品は高い価値があるとされているんです。